第1章 若鷹軍団がやってきた
“野武士軍団”
「サイドハンドから独特のモーションの第2球、打ちました! 大きい! ホームラン! ホームランです! 立役者、今日のゲームの立役者、稲尾。投げてよし、打ってよし、ホームラン!」
1958(昭和33)年の日本シリーズ。3連敗した後、4連勝で東京読売巨人軍を敗り、逆転日本一。エース、稲尾和久(故)の大活躍だった。「アメリカ大リーグにもない奇跡」と騒がれたこの日本シリーズは今でもファンの間で語り継がれている。
かつて博多の街には“野武士軍団”と謳われたプロ野球チームがあった。 1954(昭和29)年に初のリーグ優勝を飾った後、1956(昭和31)年に初の日本一。そこから3年連続リーグ優勝を飾った。地元に愛された球団、西鉄ライオンズ。だが、そんな西鉄の黄金時代も長くは続かなかった。満員だった野球場は閑散とし、いつしかチームは下位を低迷するようになった。球団譲渡の危機に 晒された。
1972(昭和47)年、西鉄ライオンズ譲渡。福岡野球株式会社に経営を移行し、以後、太平洋クラブ、太平洋クラウンライターとして6年間、福岡に残った。 1978(昭和53)年、ついに国土計画(西武)へ球団を譲渡。地元に愛され続けたライオンズは、本拠地を遠い埼玉に移し、「西武ライオンズ」として生まれ変わった。――福岡からプロ野球球団が消えた。
球団誘致運動
街は静まり返った。かつての西鉄ライオンズ黄金時代は、博多の街を華やかに活気付けてくれていた。平和台球場周辺の住民は、球場から聞こえてくる声援の大きさで、西鉄の戦況を知ることができたという。球場に足を運べなかったファンはテレビやラジオの前で応援に 耽った。街中では野球談義に華が咲くこともあった。だが、そんなプロ野球球団はもう、無い。
「もう一度、福岡にプロ野球球団を呼び戻そう。」
やがて人々は、再び福岡にプロ野球球団を呼び戻すべく、球団誘致の署名活動を始めた。博多の街は一致団結した。「親子で見たい新球団」をキャッチフレーズに、福岡青年会議所(JC)を中心として街頭署名を精力的に行った。その署名の数は、およそ 50万の数が集まったという。そして、誘致運動発足から2年後、人々の必死の努力が報われる時がやってきた。
ダイエー球団、来福
「福岡の『市民球団』というような形で、市民の方々と一緒にチームを強くしていく。」
当時社長だった中内
氏が記者会見を開いたのは1988(昭和63)年のことだった。南海ホークスを買収した株式会社ダイエーは、フランチャイズを福岡に置くことを決めた。「福岡ダイエーホークス」の誕生だ。
10年ぶりに、福岡にプロ野球球団が帰ってきた。
1989(平成元)年1月19日、球団カラーの緑のスーツに身を包み、中内社長始め、希望の鷹戦士たちが福岡の地に舞い降りた。市民が待ちに待った新球団。人々は期待にあふれた。野球を見られる喜びに浸った。かつて西鉄ライオンズのライバルだった南海ホークスが新生「福岡ダイエーホークス」として活躍する日がやってくる。南海ホークスの伝統と、平和台球場の熱いファンの伝統の両方を受け継ぎ、「福岡ダイエーホークス」の闘いが始まった。
⇒次章 人々が待ち焦がれた地元球団。しかし、その実体は・・・。
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