第3章 さよなら平和台
多くの伝説を生んだ球場
平和台球場。福岡市中央区大手門にかつてその球場はあった。 1950(昭和25)年にサッカー場として登場するも、全国の野球熱に押され、野球場として改造。西日本パイレーツと西鉄クリッパーズが主に使用した。 1951(昭和26)年に両球団が合併した後、西鉄ライオンズの本拠地球場として市民に愛された。
今、そこに平和台球場はない。古代アジアの玄関口とされる鴻濾館 遺跡が発見されたため、歴史公園として再整備することが計画された。1997(平成9)年、整備の本格着手に伴い球場は完全閉鎖。今は記念碑が建っている。
この球場は、西鉄ライオンズの本拠地球場として、中西太(現、野球評論家)や稲尾和久(故)ら多くのスター選手が活躍した。彼らは地元のプロ野球ファンを魅了し、博多の街を湧かせた。
ライオンズが去った後は、福岡ダイエーホークスの本拠地球場となり、人々をまた湧かせた。チームこそ弱かったものの、10年ぶりに復活した地元球団へ、多くの人々の熱い期待が込められていた。
いつしか埋まったライトスタンド
平和台球場が満員となる日も少なくなかった。
当初は、レフトスタンドの方が先に埋まっていた。やがてホークスが福岡の地に根付いてくると、いつしかライトスタンドは満員の観客で埋まった。
球団も精力的にファンとの交流イベントを実施した。市民球団を目指した球団の姿勢が市民の心を掴んだ。平和台球場には、連日のように多くのファンが応援に駆けつけた。
だが、そんな平和台球場も、1992(平成4)年を最後に、プロ野球興行の長い歴史に幕を下ろす。
果たせなかった夢
1992(平成4)年、10月1日。その日、初秋の澄んだ青空から眩い陽光が平和台球場に射し込んだ。応援に駆けつけたファンの表情は晴れ晴れとしているものの、どこか感慨を抱くようでもあった。この日は、平和台球場での公式戦最終試合となる。さらに、南海ホークス時代から活躍してきた門田博光選手の引退試合だったこともあり、開場前から球場周辺に長蛇の列ができた。
平和台最後のカードは福岡ダイエーホークス対近鉄バファローズ(現、オリックスバファローズ)。この日の先発は、ダイエー・若田部健一(現、プロ野球解説者)、近鉄・野茂英雄(現、カンザスシティ・ロイヤルズ)。両チームともエースが登板した。試合は0−0の同点のまま終盤まで進んだ。
均衡が破られたのは8回の裏。この回先頭の広永益隆(現、少年野球指導者)がライトスタンドへホームランを放ちダイエーが先制。1−0で9回を迎えると、若田部が猛牛打線を封じ込み、完封勝利。平和台最終戦というメモリアルゲームに華を手向けた。ひび割れんばかりの歓声の中、スタンドではウェーブが何度も巡った。
いくつもの素晴らしいプレーを生んだ伝説の球場、平和台の歴史は終わった。人々は、有終の美を飾る素晴らしいゲームに、どこか満足げだった。だが、一つだけ心残りなのは、平和台球場で、福岡ダイエーホークスの胴上げを見ることができなかったことだ。この年もチームは4位。ダイエーホークス優勝は見果てぬ夢だったのだろうか。
「福岡ドームであいましょう!」
「来年、福岡ドームであいましょう!」
平和台球場のセンターバックスクリーンにあるホークスビジョンに、メッセージが映し出された。翌年から、ホークスは福岡ドームを本拠地球場としてシーズンを戦うことになる。ダイエーがフランチャイズを福岡に置くことを決めた後、既にドーム球場建設の計画は進んでいた。平和台球場を名残惜しむ間もなく、チームは福岡ドームへと移る。
福岡ドーム。平和台球場で果たせなかった夢を成しえる場所となるのか。ファンの期待は高まった。
⇒次章 夢の舞台、福岡ドーム。平和台球場で果たせなかった想いを託して・・・。
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