福岡ダイエーホークス物語

第5章 ダイエーを変えた男〜根本陸夫

根本陸夫という男

 宮崎市にある生目の杜運動公園。ここは、福岡ダイエーホークスがキャンプを張る野球場だ。この施設の目玉は、何といっても隣接された2つの球場。メインとなるアイビースタジアムには 1軍選手。歩いてすぐの距離にある第2野球場には2軍の選手が練習している。1軍と2軍がこんなに近い練習場は珍しい。このおかげで、1軍監督は、簡単に 2軍選手を視察することができる。それは、2軍の若手選手をより良く刺激する。この1軍と2軍が隣接した球場の構想は、かつてダイエーにいた根本陸夫氏の発案だったという。

 根本陸夫。1926(大正15)年11月20日、茨城県那珂郡東海村に生まれる。旧制日本大学第三中学校(現、日本大学第三高等学校)から日本大学専門部、法政大学を経て日本コロムビアへ(現、コロムビアミュージックエンタテイメント)。 1952年に、近鉄パールス(現、オリックスバファローズ)に入団。選手としての華々しい活躍はないものの、引退後、近鉄、広島、西武のコーチや監督を務めた。 1982(昭和57)年から1992(平成4)年には、西武球団管理部長として影ながら西武の黄金期を支えた。

 そんな根本氏がダイエーにやってきたのは、福岡ドーム開幕に合わせた1993(平成5)年。当時の中内いさおオーナーの熱意に感激し、監督就任を引き受けた。

 根本監督就任の1年目は130試合45勝80敗5分。5位ロッテに5.5ゲーム差をつけての最下位だった。だが、これは根本野球の構想の1つだった。キャンプイン当初から、根本監督は選手の自主性を尊重してきた。その姿勢はシーズンが終わるまで貫かれた。チームをできるだけ自由に戦わせた。ワンシーズンを棒に振ってまでチームをじっくりと観察し、静観してきた指揮官。一部では「放任主義」とまで言われた。だがそれは、根本改革の序曲に過ぎなかった。  

チーム改革

「ひとことで言えば、昨年1年間は、チームの問題点をあらわにするための期間だったということです。私が監督を引き受けた時、ホークスは、長い間Bクラスに甘んじていました。この低迷した組織をどうしたら強くすることができるか。それが、私に与えられた最大のテーマでした。このテーマを現実なものにするために最初に行ったのが、チーム状態の掌握です。では、掌握するためには何が必要なのか。それは、問題点をはっきりさせることです。だからこそ、昨年はチームの中身が全部出てくるような形で 1年間を過ごしたのです。」

 監督就任2年目の初め、根本監督は球団のインタビューにこう答えた。1年目のシーズンはチームの“あら捜し”が目的だった。そして、1年目のシーズンオフ、根本監督は大胆な一大事をやってのけた。

 1993(平成5)年11月16日。ダイエーと西武のファンの間に衝撃が走った。西武ライオンズの黄金期を支えた、秋山幸二外野手、渡辺智男投手、内山智之投手が福岡ダイエーホークスへ。そして、福岡ダイエーホークスのV構想に欠かせないであろう主力選手、佐々木誠外野手、村田勝喜投手、橋本武広投手が西武ライオンズへ。両球団、 3対3の交換トレードだった。

 この計画は、根本監督自身が水面下で西武球団と交渉していた。情報が漏れないように、事実を知る人間をできる限り少なくして交渉に挑んだ。勝負をかけたその交渉は慎重そのものだった。西武球団がこの交渉を受けたのも、根本監督自身が長い間、西武ライオンズの監督や管理部長を勤め上げた実績があったからこそ実現したものだった。  

 さらにチームの補強は続いた。新しくできたFA制度で、「安打製造機」の異名をもつ、松永浩美内野手が阪神タイガースからダイエーに入団。その年のドラフトでは、アマチュア球界のスラッガーと言われた小久保裕紀内野手を獲得。チームのV構想は一気に現実味を帯びてきた。  

影からのサポートへ

 大胆な補強は着実にチーム戦力へ影響した。根本監督2年目のシーズンは130試合69勝60敗。17年ぶりに勝ち越した。惜しくも4位だったが、同率で並んだ 2位のオリックス、近鉄とのゲーム差は0。勝率で1厘差というわずかばかりの差でAクラス入りを逃した。このシーズンを最後に根本監督は現場を退いた。チームを影からサポートする役回りとなり、球団経営に尽力した。「強い市民球団を作りたい」という中内いさおオーナー(当時)の強い意志と、根本氏の志が融合し、チームは着実に戦力を補強していった。

 1994(平成6)年、城島健司捕手をドラフトで獲得。1995(平成7)年には、斉藤和巳投手。1996(平成8)年には井口忠仁(現、資仁)内野手、松中信彦内野手、柴原洋外野手、岡本克道投手。 1997(平成9)年には永井智浩投手、篠原貴行投手、星野順治投手をそれぞれドラフトで獲得。ダイエーは常に、右肩上がりの戦力を補強していった。これもひとえに 、裏でチームをサポートした根本氏の尽力の賜物といっても過言ではない。

世界の王をダイエーに

 根本氏のチーム改革の目玉はこれだけではなかった。

 1994(平成6)年10月12日、ひとつのニュースが日本列島をかせた。現役時代、多くのプロ野球ファンの心を掴んだ王貞治氏が、福岡ダイエーホークスの監督として就任することが報じられた。  

王貞治監督就任会見
王貞治監督就任会見
   

 王貞治。通算成績は、2831試合に出場し、2768安打、打率3割1厘。世界記録となる通算868本のホームランを放ち、“世界の王”と呼ばれた。長嶋茂雄と共にクリーンナップを務め、「ON砲」は読売ジャイアンツの黄金時代を支えた。  

 そんな王貞治氏は1984(昭和59)年から1988(昭和63)年まで巨人の監督を務めたが、その後6年間、プロ野球の現場から身を引いていた。その間、いくつもの監督依頼が舞い込んだ。だが、王氏はそれを拒み続けた。そんな王氏をダイエーの監督として、再び現場に呼び戻せたのは、やはり根本氏の力だった。  

「王さんの不在は、野球界にとって大きな損失であり、球界活性化のためには欠かせない存在」

 根本氏の熱い説得。さらに、根本氏と王氏の野球観が一致したことがダイエー監督の実現に結びついた。  

 その頃、長嶋茂雄氏は監督として読売ジャイアンツの指揮を執っていた。日本全国のプロ野球ファンは、夢にまで見た“ON対決”の実現を願った。  

 根本氏の球団に対する尽力が、数年後に実を結ぶことになるとは、この時誰も知る由もなかった。  

⇒次章 世界の王がダイエーに。しかし、それは意外な苦悩の連続だった・・・。

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