福岡ダイエーホークス物語

第8章 「強いダイエーを見せたい」〜秋山幸二・工藤公康

ライオンズの主力

 故・根本陸夫元監督の力によって実現された衝撃の交換トレードが 勃 発 し た の は1993(平成5)年のことだった。これによりライオンズ黄金期を支えたスラッガー、秋山幸二(現、福岡ソフトバンクホークスチーフコーチ)がホークスへ入団した。

 秋山幸二――。1980(昭和55)年に熊本八代高校からドラフト外で西武ライオンズに入団 。 高校時代は投手だったが 、 プロ入りを機に内野手 、 のちに外野手とな った。 1987(昭和62)年には本塁打王、1990(平成2)年には盗塁王を獲得。秋山幸二、清原和博(現、オリックスバファローズ)の「AK砲」は西武ライオンズの黄金期を支えた。

 秋山がダイエーに入団したことで戦力の底上げが期待され、優勝への大きな望みとなった。さらに、それに拍車をかけたのは、1994(平成6)年のオフに工藤公康(現、横浜ベイスターズ)をもダイエーに入団したことだった。

 工藤公康――。投手。1981(昭和56)年、ドラフト6位で西武ライオンズに入団。シーズンMVPや最優秀防御率 、 最多奪三振 、 最高勝率 、 ベストナン な ど 賞 を 総 なめ 。 1987(昭和62)年には2年連続日本シリーズMVPを獲得した。 「 セ リ ーグキラー」の異名を持ち、西武のエースとして、黄金期を秋山らとともに支えた。

 FA宣言をしてダイエーに入団すると、秋山、工藤という西武ライオンズ黄金期の主力がダイエーに揃った。前後して同じ時期に王貞治監督も就任したことから、チームへの期待はより一層高まっていた。

「強いダイエーを見せたい」

「強いダイエーホークスというものを見せたいなと思います。」

 ダイエー入団が決まった秋山は、記者会見の席でこう発言した。「強いダイエー」。夢には描いていたものの、これまでのダイエーの実力を見れば、それは単なる夢物語でしかなかった。秋山は、そんな常識を跳ね除けて会見の席で堂々とそれを言い切った。ファンの気持ちは高ぶった。今まで夢物語に過ぎなかった“優勝”の二文字が、手の届くところに見えたような気がした。

 強いダイエーになることを期待してホークスに入団した秋山だったが、チーム状態は思った以上に悪かった。“優勝”という明確な意識を持ってゲームに挑んでいる選手は、ほぼいないに等しかった。それまで、何度も優勝を経験してきたチームにいた秋山にとって、それは非現実的な光景だった。チームカラーのあまりの違いに戸惑った――。秋山は、自分のプレーに専念した――。だが、やがてチームの結束を固めるときがやってくる。

“親父”

 球団社長、根本陸夫氏の訃報が届いたのは1999(平成11)年4月30日のことだった。心筋梗塞のため急逝。享年72歳。2年間、ダイエーの監督も勤め上げた根本氏がダイエーホークスの球団社長に就任してから、わずか 3ヶ月での出来事だった。

 この訃報は球団関係者はじめ、チームの選手にも大きな衝撃を与えた。中でも、秋山や工藤にとっては特別な想いがあった。

 秋山や工藤がダイエーに入団したのは、根本氏の力が大きい。根本氏は、監督としてチームの指揮を執る一方で球団経営にも尽力した。いわば、GM(ゼネラル・マネージャー)的な役割を担っていた。王貞治氏を監督として 招聘しょうへいし、小久保、城島、松中など、のちにダイエーの主軸として活躍する人材を集めるなど、スカウトとしても手腕を発揮した。秋山、工藤両選手が“野球界の親父”と慕う根本氏がいなければ、 2人のダイエー入団はなかったに違いない。

 高校時代は投手として活躍した秋山を野手として評価し、ドラフト外で指名した。そこから野手として鍛え上げ、球界を代表する主軸に育て上げたのは、何より根本氏だった。

 さらに、熊谷組へ社会人入りが内定していた工藤を、ドラフト6位で強行指名した。工藤は入団を拒否したが、根本氏の熱意ある説得でプロ入団の道を選んだ。工藤がプロ野球選手となるきっかけとなった人だった。そんな根本氏は、工藤にとって結婚式の仲人でもある。

 秋山や工藤がダイエー入団を決めたのも根本氏がいたからだ。根本氏の熱意あふれる思いは2人の心を掴み、ダイエー入団が決まった。 根本氏の訃報で悲しみにふける工藤は言った。

「いつまでも悲しんでいると、天国の親父から“俺のことを悔やむより、野球のことに集中しろ”と言われそう。」

 工藤や秋山の中で何かが変わり始めた。秋山や工藤がダイエーに入団して、5、6年目のことだった。

夢へつなげ〜若手の成長

 チームは一丸となった。根本氏の訃報が届いたその日は、奇しくもダイエー対西武の試合が行われた。根本氏はダイエーと西武の球団改革に尽力した。両チームとも追悼の念を込めて喪章を付けて挑んだ試合は、ダイエーが10 −1で勝利した。この頃からチームはVロードの勢いに乗っていた。小久保や城島、松中ら若手選手が成長してきた。

 寡黙なチームリーダー・秋山は、練習に取り組む姿勢、グラウンドでのプレーで若手を後押しした。工藤は、投手陣の先頭に立ち、若手投手を強く叱責した。さらに、バッテリーを組む城島には、実際のプレーの中で厳しい教育を行った。若手選手たちは、チーム内で唯一優勝経験のある先輩選手に必死に食い下がった。いつしかチーム内には、“優勝”という 2文字がより明確な目標として選手のあいだに身についた。この若手の成長は、夢をつなぐ栄光の架け橋の第一歩となった。

 そして、1999年9月25日、チームは悲願を達成する日を迎える。

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