第11章 永遠の若鷹〜藤井将雄
V1を支えた男
2000年10月7日。福岡ダイエーホークスが二連覇を成し遂げた歓喜の環の中に、背番号「15」をつけた人形があった。
その背番号「15」の張本人、藤井将雄は、王監督胴上げの様子を、福岡市内の病院からテレビで見守っていた。今シーズン、藤井は“間質性肺炎”のために入退院を繰り返していた。藤井はナインの喜ぶ姿を見て、涙を流した。歓喜の環の中に加われなかった悔しさの涙ではない。チームが連覇を成し遂げられたことに感服する、歓喜の涙。藤井は、闘病中も、常にナインと一緒にシーズンを戦っていた。
藤井将雄。1968(昭和43)年10月16日、佐賀県唐津市に生まれる。唐津商業から日産自動車九州を経て1994(平成6)年にドラフト4位で福岡ダイエーホークスに入団。入団当時は 26歳という遅咲きの藤井は、「勝利の方程式」の中核を担い、中継ぎとして1999(平成11)年のホークスV1の原動力となった。「炎の中継ぎ」と言われた藤井は、同年、パリーグのホールド王に輝いている。その年の日本シリーズから胸の痛みを訴え、検査の結果、“間質性肺炎”と診断された。翌2000(平成12)年から入退院を繰り返す生活を送っていた。
常にひたむきに野球に取り組む姿勢を見せる藤井は、若鷹たちの兄貴的存在だった。誰もが藤井の早期復活を心待ちにしていた。
奇跡的復活
藤井が入院した頃、「藤井将雄公式ホームページ」が有志で開設された。このホームページには、藤井本人が近況を書き綴った日記もあった。藤井は、このホームページ上からナインを励ました。時には試合の内容を叱咤激励したり、闘病中の自分を支えてくれる周囲の人たちへの感謝の気持ちを書いたり。選手たちも藤井のホームページにアクセスし、掲示板にメッセージを残した。「明日はがんばります。藤井さんもはやく元気になってください」。若鷹たちは、強い絆で結ばれていた。藤井は自らナインを励ますと同時に、自分の復帰を心待ちにしてくれている選手たちから勇気をもらっていた。選手たちはグラウンドでV2を目指して戦っている。藤井も、復活を目指して病院のベッドの上で戦った。藤井は懸命にリハビリをこなした。
必死のリハビリが実を結んだ。半年間の療養を経て、少しずつ体を動かせるようになると、藤井は5月18日の2軍戦に登板、雁ノ巣球場で復活を遂げた。医者からは、「野球は無理。命を縮めることになりかねない」と言われていただけに、奇跡的復活だった。誰もが藤井の完全復活が近い日を信じた。望むのは、早く健康な体に戻って、再び福岡ドームのグラウンドでプレーする藤井の姿。
しかし、この奇跡的復活もよそに、藤井の体は少しずつ、だが確実に蝕まれていたことなど、この時、誰も知る由もなかった。
急逝
藤井のホームページの日記に異変が起きていた。夏を過ぎたあたりから、少しずつ「休刊」が出るようになった。藤井はたびたび日記の更新を休むようになった。「今日は休刊します。」「休刊でーす。」「休刊日。」毎日書く必要はない日記だったが、律儀な藤井は必ず何かを書き込んだ。「休刊」が増え始めたのは、藤井が少しずつ体調を崩していることを意味していた。
だが、藤井は確かに“明日”を見ていた。藤井は退院後のことを考え、新しいマンションに引っ越すことを決めた。福岡ドームに近い場所にあるこのマンションは、若い選手たちが気軽に立ち寄れて、悩みや相談を聞いてあげられる場所になればと願った。
その一方で、入院が長引くと、藤井はチームメートに一目会うことを強く望んだ。
「きっとみんな心配しているから、元気な自分を見てほしいし、自分もみんなからもっと元気をもらいたい。」
そんな想いが通じた。10月3日、4日の2日間で、王監督以下選手一同、裏方スタッフまで約50人の球団関係者が藤井の見舞いに訪れた。藤井の病室が花で溢れた。この後、7日にチームは連覇を成し遂げる。しかし、残念ながら、チームメートが藤井の元気な姿を見たのは、これが最後だった――。
2000(平成12)年10月13日。藤井将雄、死去。享年、31歳――。チーム内に衝撃が走った。誰もが藤井の復帰を信じていた。“間質性肺炎”と公表されていた藤井の病気だが、実は“肺癌”だった。このことは家族と、一部の関係者しか知らなかった。医者からは余命3ヶ月と宣告されていた。それにも関わらず、一時は奇跡的な回復を見せ、1年間の生活を送った。
奇しくも、翌14日は、福岡ドームで、日本シリーズへ向けた練習が開始される日だった。選手と、球場に集まったファンは、練習前に黙祷を捧げた。
日本シリーズは喪章を付けて臨んだ。
若鷹たちの心へ
「チャンス、ピンチになったらグラウンドに来て、みんなに気合を入れてください。」
藤井のチーム一の親友だった若田部が告別式で弔辞を読んだ。選手らは、ユニフォーム姿で告別式に参列し、藤井の死別を惜しんだ。
“日本シリーズで必ず勝って、藤井将雄の墓前に捧げる。”
チームに、“絶対に負けられない理由(ワケ)”ができた。今シーズン、一緒に戦ってきた藤井のためにも、選手達は勝つことを決意した。
日本シリーズ一戦目は、若田部が登板。相手のミスなども誘い、終盤に逆転し、そのまま勝利につなげるという、シーズン通りのホークスらしい戦いぶりを見せた。そのゲームは、藤井将雄がどこかで見守っているように思えた。選手もファンもそう思ったに違いない。
しかし、チームは2連勝の後、4連敗。藤井の墓前に、“日本一”の華を手向けることはできなかった。
だが、確実にナインの心には「藤井将雄」の雄姿が刻まれていた。“藤井のために”と挑んだシリーズだったからこそ、そこにはまた1つの結束が生まれた。
チームは、藤井のためにも、来季へ向けて、日本一奪還を約束した。
***
藤井の背番号「15」に因んで、福岡ドームの15番通路が「藤井ゲート」となった。そこには、「皆様へ」から始まる藤井の最後の言葉が刻まれている。藤井は、永遠にチームやファンの中で生き続けている。
「皆様へ
今の自分があるのは、過去から現在において出会ったすべての人のおかげだと思います。その中の誰一人がかけても、今のこの幸せな自分は存在しませんでした。だから、すべての人に感謝しています。
プロ野球選手はまわりの人々に夢と希望を与える職業だという人がいます。でも、ボクは逆です。たくさんの人から夢や希望、エネルギーをもらってきました。そのことが嬉しかったんです。
六年前の入団発表のとき、王監督を胴上げしたいと抱負を述べました。その願いも去年のリーグ優勝と日本一で無事に達成できました。そして、今年はチーム全員で頑張ってつかんだV2。素晴らしい野球人生だったと胸を張れます。
この病気には自分自身、すごく勉強させてもらいました。孤独や優しさ、思いやり、不安。人間の本当の感情に触れることができました。今までのボクは上っ面のことしか見えてなかったんだなとも思いました。すべては、この病気が教えてくれたことですが。
この一年間、ゆっくりと休ませてもらいました。改めて野球を頑張ろうという気持ちにさせてくれた中内正オーナー代行はじめ球団の方々、王監督、チームメートの皆、感謝の気持ちは忘れません。そして、生きる希望を与えてくださったファンの皆様、ありがとうございました。これからもダイエーホークスを応援してください。
藤井将雄」
⇒次章 3年ぶりのリーグ制覇。そこには黄金期の幕開けを感じた…。
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