第13章 鷹の伝統〜小久保裕紀
衝撃
2003(平成15)年11月。ファンの間に衝撃が走った。小久保裕紀内野手の無償トレード。
前日には、優勝パレードを行い、博多の街が日本一の喜びに浸かっていたが、一夜明けての悪夢だった。
小久保と共に記者会見に臨んだ中内正オーナーは、会見場で涙を流した。この中内オーナーの涙に、ファンの間では“何か裏があるのではないか”という疑問が浮上した。
チームメートも不安に駆られた。“自分も同じような目に遭うのではないか”。選手会長だった松中信彦は、そんな騒動を受けて契約更改の話し合いの場で、複数年契約をフロントに提示した。
信頼
小久保裕紀。内野手。1994(平成6)年、青山学院大学からドラフト1位で福岡ダイエーホークスに入団。1995(平成7)年には本塁打王、1997(平成9)年には打点王のタイトルを獲得。ベストナインに2度選出され、ゴールデングラブ賞を1995(平成7)年に受賞している。ホークスの4番打者として長く君臨し、選手会長も務めた。チームメートからは誰からも慕われる存在だった。
2003年シーズンは、どうしてもVを奪回しなければならないという意識がチームの中でも強かった。そんな小久保は、オープン戦から宿敵・西武に全力で挑んでいた。だが、その試合で小久保は、ホームベースでキャッチャーとのクロスプレーの際に右足を負傷。このケガは思いの外ひどく、シーズン中の復帰は絶望的となった。
負傷後、小久保は治療とリハビリのためにアメリカに渡った。シーズン中にチームを離れ、独りリハビリにはげむのは、小久保にとって過酷な試練だった。小久保は、インターネットを通して、チームの状況を常にチェックした。
ナインも小久保のことを案じていた。ナインと小久保の間で、しばしばメールのやりとりがされていた。小久保を励ますために。メールを送った選手も、逆に小久保から励まされることもあった。「Good Luck」。小久保が必ずメールの最後に添えるその一文は、小久保のチームを想う気持ちが象徴されていた。
「小久保さんのぶんまで――。」
選手らには、自然とそんな意識が芽生えていた。いつしか全選手の帽子に、小久保の背番号である「9」が刻まれていた。松中信彦は、負傷した左足を引きずりながらも打席に立ち、史上最強3割打線の主軸として、小久保に代わる4番バッターを務め上げた。城島健司は140試合全イニングでマスクをかぶり、若手投手陣を牽引した。また、小久保が守っていたサードのポジションには、川崎宗則が台頭。村松有人と共に韋駄天コンビとして機動力野球の要となった。
そんな想いが報われたのは、9月30日、千葉マリンスタジアムでのこと。リーグ優勝を決めたこの日、リハビリを終えて帰国していた小久保も球場でゲームを見守っていた。
さらに、日本シリーズでも、阪神タイガースを敗り、日本一。祝勝会の場で「来年は小久保さんも一緒に喜びを分かち合おう」という松中の言葉が象徴するように、黄金期へ向けてチームは順風満帆に見えた……ような気がした。
鷹の伝統
日本一の喜びも束の間、2003(平成15)年11月3日。小久保の読売ジャイアンツへのトレードが報じられた。しかも、その内容は交換要員なし、無償でのトレード。ダイエー球団トップ曰く、小久保にとって最良の条件だったというが、フロントに対するファンや現場からの不信感が色濃く浮上した。一時期、「小久保無償トレード問題」は、ホークスファンの間のみならず、プロ野球選手会の間でも問題視されていた。
だが、チームを去った小久保の想いは、確実に受け継がれた。小久保の誠実に野球に取り組む姿勢や、トレーニング技法まで、チーム内に良き伝統として、今も残っている。そんな小久保の精神や練習方法は、前年(2002年・平成14年)にチームを引退した秋山幸二(現、福岡ダイエーホークス2軍監督)のやり方を受け継いでいる面もある。
秋山や小久保がチームに残したものは、松中や城島ら、現在の主力選手はもちろんのこと、川崎ら若手選手にも確実に受け継がれている。そして、これからも受け継がれていくに違いない。時代の流れで例えチームが変わったとしても……。
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